また喋りだす
アメリカでのアジア系へのヘイトクライムについて。
この属性の人たちならばあからさまに差別してもしてもいいですよと、人気取りやお金儲けやガス抜きのために始まった事が行き着くのがこのような事件なのかと思うと、元大統領レベルのあからさまな表現ではいかなくとも、日常の些細な場面に差別や偏見があり、それを気がつかず再生産したり、ショーのように消費したり、会話の潤滑油として飲み込んだりしたくはないです。
「あいつらは劣っている、だから私たちは優れている」という考えを拒否し、「私たちは複雑で尊い」と自身を推し鼓舞するような、そういうメッセージを先人たちが何度も何度も発信していることに気がつくと、ずっとそれに守ってもらっていたのだなと泣けてきます。泣いている場合じゃねぇ、私も人類の1人としてそれをどんな形でも送り続けなくてはと、ヘイトクライムに対してはあまりに手緩い文章かもしれないけれども言葉にしていきたいです。